2020年8月24日

読書ノート始めます

現在進行中の研究計画で使用する予定の文献レビューを始めます。読書ノートのようなものになる予定です。できることなら週刊誌に連載するように、ひとまとまりの文献について1週間でメモしていきたい。積ん読している文献を読みながら研究計画における役割を確定していく予定です。レーニンの哲学ノートのように引用をしていくのかどうかは試行錯誤していくことになります。

2020年3月1日

センプルン『人間という仕事:フッサール、ブロック、オーウェルと抵抗のモラル』

センプルン『人間という仕事』読了。副題は「フッサール、ブロック、オーウェルと抵抗のモラル」である。いったいどんな共通点があるのかと思ったが、三者がそれぞれの場所で1930年代のヨーロッパの危機に直面してどのような精神で抵抗したかについての講演であった。しかし実際には三者だけでなく、その周辺や同時期に行動した知識人の話がたくさん出てきて、ナチズム、ファシズム、スターリニズムに席巻されるヨーロッパの知識人たちの群像が語られる。フッサールとオーウェルはある程度わかっているがアナール学派のマルク・ブロックの抵抗活動と最期についてはよく知らなかった。センプルンはブロックの『奇妙な敗北』を主軸に語っている。この本には翻訳があるんだね。センプルンは三者に共通する抵抗精神を「批判的合理性」「理性の勇敢さ」「民主主義に対する信」「民主的理性」と呼ぶ。こういう確信こそこれからも反復して学び直すべきものだということである。
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784624932640

センプルン『人間という仕事』読了

https://www.evernote.com/l/AUaaAQi_DZVAVYIefpV1bPJgSyK7Le5CpWw

2019年9月12日

Socs.jpを始めたときのまえがきを再録

Socs.jpを始めたときのまえがきを再録。結局、ほとんど前に進めなかったなあ。
***
かつてサッチャーは「社会なんてないんだ」と発言して波紋を呼んだことがある。日本でも少し前に「セカイ系」というジャンルが流行ったが「自分の意志がそのまま世界を動かす(破滅させる・蘇生させるとか)」といった物語形式が若い人たちに流行した。流行は終わったかに見えるが、じっさいにはセカイ系の物語は十代から三十代の人たちの内面のイデオロギーのひとつになっている。しかし「自分と世界との間」には幾層にも積み上がった「社会」がある。それはかんたんには見えない。信じることも困難。要するに社会という概念が見失われている。だからこそ「社会」について考え直したい。Rethinking Societies. それがSocs.jpの課題です。
Socs.jp管理人の野村一夫です。社会理論についてまじめに議論や情報交換ができればいいなと、ずっと昔から考えてきました。Socs.jpというドメインもそのために汎用JPドメインの初期にあたる2002年あたりに用意していたものです。完全公開のウェブですと、こういう議論は不可能で、長年、適切なプラットフォームを試してきました。ここにきてFacebookページが使えるようになって(というよりも自分とは関係ないと思っていたのです)、ようやく「自分でもできるかな」と思うようになり、昨年暮れから個人ページを作成してトレーニングしてきました。
社会理論というのは本来ディシプリンに拘束されません。ですから、たいていの研究学会の範囲を超えてしまうのです。また、それが理論であろうとするときには必ずメタレベルの知識の理論が要求されます。そこがやっかいなところです。
ところが昨今、国際バカロレアで重視されている「知の理論」が注目を浴びています。少なくとも私は高等教育の最重要課題だと認識しています。しかしながら、そのときに細分化された専門分野の研究者として何が語れるでしょうか。
Socs.jpでは、あらためて「社会の理論とはいかなるものか」「社会とは何か」「社会の知識はどうあるべきか」について議論したいと思います。よろしくお願いします。

Fulcher and Scott(2007)の目次を眺める

拡張された社会学の全体像は、現在のところ標準テキストで把握することができる。これはFulcher and Scott(2007)の目次である。第3版のもの。

第1部 社会学的に考える──理論と方法
01 社会学とは何か
02 理論と理論化
03 方法と調査
第2部 社会的アイデンティティ
04 社会化・アイデンティティ・相互作用
05 性・ジェンダー・セクシュアリティ
06 人種的・民族的アイデンティティ
07 犯罪と逸脱
08 身体・健康・医療
第3部 文化・知識・信念
09 教育
10 コミュニケーションとメディア
11 宗教・信念・意味
第4部 社会組織と統制
12 家族とライフコース
13 都市とコミュニティ
14 組織・管理・統制
15 国家・社会政策・福祉
16 グローバリゼーション
第5部 生産・不平等・社会的分割
17 労働・雇用・レジャー
18 不平等・貧困・富
19 階層・階級・身分
20 権力・分割・抵抗
https://books.google.co.jp/books/about/Sociology.html…

Bryant and Peck (2007) 21st Century Sociology 目次を眺める

Bryant and Peck (2007) 全2巻を見てみよう。21st Century Sociology である。これはテキストではなく研究案内・研究動向に関するリファレンス・ハンドブックであるが、私が見た範囲では、これがもっとも包括的な社会学の領域を提示している。

第1巻 伝統的かつコアな領域

第1部 社会学のディシプリン
01 社会学的視角
02 社会学の歴史──ヨーロッパ的視角
03 社会学の歴史──北米的視角
04 21世紀の社会学理論
第2部 国際的視角
05 アジア社会学
06 カナダの社会学
07 ヨーロッパ社会学
08 イギリス社会学
第3部 社会の研究への科学的接近
09 質的方法論
10 量的方法論
11 比較的歴史社会学
第4部 社会生活の織物(fabric=構造・仕組み?)
12 文化の社会学
13 社会化の社会学
14 社会心理学
第5部 社会的集合体(aggregations)
15 社会構造の社会学
16 集団力学の社会学(グループ・ダイナミクス)
17 組織の社会学
18 産業社会学
19 自発的アソシエーションの社会学
20 社会的ネットワークの社会学
21 仕事と職業
第6部 社会的区別と多様性
22 社会階層
23 人種的・民族的関係の社会学
24 ジェンダーの社会学
25 セクシュアリティの社会学
第7部 社会制度
26 恋愛・求愛・デートの社会学
27 合衆国における結婚と離婚
28 21世紀の家族社会学
29 宗教社会学
30 政治社会学
31 教育社会学
32 経済社会学
33 医療社会学
34 法社会学
35 軍事社会学
第8部 社会的な問題と不満
36 社会問題
37 逸脱の社会学
38 性的逸脱
39 犯罪学
40 ギャンブルの社会学
41 アルコール乱用とアルコール中毒
42 ドラッグ使用の社会学
43 青少年の非行
44 矯正の社会学
第9部 ローカル性と社会生活
45 人間生態学
46 コミュニティの社会学
47 農村社会学
48 21世紀の都市社会学
49 移民の社会学
50 開発の社会学
第10部 社会生活の量化
51 人口統計学
52 社会指標の社会学
第11部 集合行動と社会運動
53 集合行動の社会学
54 社会運動
55 マス・コミュニケーション
第12部 動いている社会
56 社会変動
57 動的システム理論

第2巻 特殊研究と学際研究

特殊領域

第1部 非伝統的な視角・理論・方法論
01 人間でない動物と社会の社会学
02 エスノメソドロジーと会話分析
03 批判社会学
04 人間主義社会学
05 フェミニズムの方法論と認識論
06 フェミニズム理論
07 生活の質調査
08 映像社会学
09 数理社会学
10 リスクの社会学
第2部 自我の社会学
11 身体の社会学
12 障害の社会学
13 感情の社会学
14 女らしさの社会学
15 友情の社会学
16 男性と男らしさの社会学
第3部 ライフコースの社会学
17 子どもと若者の社会学
18 加齢の社会学
19 死と死にゆくことの社会学
第4部 規範的行動の社会学
20 消費者行動の社会学
21 娯楽の社会学
22 食品と食事の社会学
23 レジャーとレクリエーションの社会学
24 スポーツの社会学
25 ポピュラー文化
26 文化生産論
第5部 創造的行動
27 芸術の社会学
28 知識社会学
29 音楽社会学
30 演劇社会学
31 科学と技術の社会学
第6部 マクロレベル問題
32 災害の社会学
33 メンタルヘルスの社会学
34 社会生物学
35 技術と環境
36 テロリズム
37 暴力の社会学
38 環境社会学
第7部 社会学の利用
39 応用社会学
40 臨床社会学
41 評価調査
42 社会学的実践
43 社会学の教授と学習──過去・現在・未来

学際研究
44 アパラチア研究とアパラチアの社会学
45 アジアとアジア系アメリカ人の研究
46 刑事裁判研究
47 ゲイ・レズビアン・クィア研究
48 ネイティブ・アメリカン研究
49 被害者学

社会システムの三類型に関するルーマン

これはいったいどこに書いたのだろう? 長岡克行さんの研究書を読んだときのメモ。参考までに転記しておく。

投稿者 野村一夫 日時 2008年7月10日 (木) 10:21 01社会学の領域 | 個別ページ
2008年6月22日 (日)
社会システムの三類型に関するルーマン

 ルーマンには独特の理論的前提がある。それを無視するわけではないけれども、上澄みだけを参照することも許されるだろう。
 長岡克行(2006)によると、ルーマンにとって社会システムはコミュニケーション・システムである。コミュニケーションが唯一の要素である。そのコミュニケーションがどのように条件づけられているか(こういう表現はとらないけれども単純化して)によって三つの類型に区別されるとする。
 第一の社会システムは相互行為(相互作用)である。その前提は「居合わせていること」である。
 第二の社会システムは組織である。ここでは「構成員である」ことが前提である。組織はその構成員資格に役割や権限や指示服従義務等を結びつけている。これらによって組織はコミュニケーションの偶発性(ダブル・コンティンジェンシー)を大幅に解決する。
 第三の社会システムは社会(ゲゼルシャフト)である。相互行為も組織も社会に含まれる。包括的な社会システムである。「社会はコミュニケーションという操作によって生産され再生産されるオートポイエティック・システムである。」(長岡克行 2006:443)これこそ社会学の対象なのである。
 ルーマンのこの三類型は、かれが社会システムをコミュニケーション・システムと考えることからも、コミュニケーションには三局面があるということを指示していると理解してもかまわないだろう。

投稿者 野村一夫 日時 2008年6月22日 (日) 12:41 01社会学の領域 | 個別ページ
理論の二つのタイプに関するルーマン

 長岡克行(2006:94-95)によると、ルーマンは『社会システム』の準備過程の論文で、ふたつのタイプの理論を区別しているという。
 第一のタイプがベーコン的伝統に由来するもので、ある秩序を所与として前提し、その秩序に欠如しているものや欠陥を問題にするものである。この場合、社会学者は医者と同じように、社会秩序の安定性や社会問題に取り組む。不健全と考える諸問題から道徳的な推進力を引きだす。別の表現を使うと「治療的関心」と言えそうである。
 それに対して、ルーマンが主として取り組む第二のタイプは、ホッブス的伝統に立つもので、通常なもの・正常と考えられているものが「ありそうにないこと」と考える。この理論は「いかにして可能か」を問う。
 なるほど、社会学には二つの理論系統が生きている。実態としては、それらの混交と見ていいだろう。ただし、アメリカの社会学テキストには、前者の傾向が顕著である。そこではクリティカル・シンキングがしばしば強調されるが、もっぱら第一のタイプの問いである。ほんとうは第二のタイプの問いであってもかまわないのであるが、「社会をなんとかしたい」という実践的関心を社会学初心者に呼び起こすのが先決だと考えてのことだろう。

投稿者 野村一夫 日時 2008年6月22日 (日) 11:38 01社会学の領域 | 個別ページ
2008年6月19日 (木)
領域社会学の根拠

 領域社会学の存立根拠は「社会分化」正確には「社会の機能的分化」である。とすれば、ルーマンのシステム論を参照・準拠して体系づける必要がありそうだ。
 しかし、ここで、社会学の領域をふたつに分けてみよう。コア領域とフロント領域である。コア領域は社会分化の進んだ領域であると考えられる。それゆえ、社会学者によってぶれがない。共通了解として、それらが社会学の領域と認められている。家族・宗教・経済・政治・教育・医療といったテーマがそれである。
 ところが、最前線であるフロント領域においては、そうした合意が必ずしも成立していない。未開拓領域あるいは不可視領域に社会学者が切り込んでいく特殊領域では、「あれもある、これもある」といった形での導入で済んでしまっている。社会学理論とくに社会分化論との関連づけが不十分なのである。
 ここで疑問が生じる。そもそも領域社会学の理論的根拠は「社会の機能的分化」だけなのか。他のロジックがあるのではないか。他のロジックを見いだせれば、機能主義者とは一線を画すことができる。じつは、これまで社会学テキストの著者たちは機能主義からの離脱は果たしていないのだ。他の理論的立場を併記することですませているにすぎない。領域設定においては機能主義の掌を出ていなかったと言うべきである。
 それに対して私は「社会問題構築」の観点から領域社会学(とくにフロント領域)を根拠づけられると考えている。「社会の自省作用」の一環として領域社会学が立ち上がり作動しているというロジックである。この点を考えるために、社会問題のハンドブックを見てみよう。
http://amzn.asia/2uHWVdJ

社会理論の対象についてのメモ

社会理論の対象についてのメモ。どこに書いたかは不明。

投稿者 野村一夫 日時 2008年7月13日 (日) 15:58 01社会学の領域 | 個別ページ
2008年7月10日 (木)
単数形の社会と複数形の社会

 ルーマンによると、近代社会は単数形の社会である。国境によって「さまざまな社会」が存在しているのではない。機能分化した「ひとつの社会」が存在しているのである。

 同様のことをウォーラーステインも述べていた。ひとつの「近代世界システム」があるだけなのだと。コーエンとケネディの『グローバル・ソシオロジー』(Cohen and Kennedy 2000=2003)でもAlbrow(1987)の「1つの世界を対象とする社会学」が必要だとする見解を援用していた。考えてみれば、マルクスもデュルケムもウェーバーもそれに近い考え方を示していた。たとえばウェーバーは比較社会学という名の下にそれを構想していた。『グローバル・ソシオロジー』によると、1914年から1945年にかけて国民中心の社会学に回帰してしまったという(訳書I:24-26)。ルーマンもウォーラーステインもオルブロウも『グローバル・ソシオロジー』の著者たちも、国民国家あるいは主権国家を分析の単位とすることを拒否している。この点については、とくにオルブロウが積極的に主張しているようで、すでに邦訳が二冊ある。
http://www.academia.edu/…/Global_sociology_with_Paul_Kenned…
Albrow, Martin, 1999, Sociology: The Basics, London: Routledge. マーティン・オルブロウ『グローバル時代の社会学』佐藤康行・内田健訳, 日本経済評論社, 2001.

投稿者 野村一夫 日時 2008年7月10日 (木) 18:24 01社会学の領域 | 個別ページ
ルーマンの社会分化の考え方

 ルーマンは社会分化について、少なくともヨーロッパ地域では四つの型に進化してきたという(長岡 2006:495)。環節的な分化、中心と周辺の分化、成層的分化、そして機能的分化である。近代社会とは機能的に分化した社会である。このさい、重要な部分システムは、経済、政治、法、科学、教育、家族、宗教、芸術、医療、マス・メディアである。

「グランド・セオリーの帰還」から

すでにたち消えた本の構想メモから。

投稿者 野村一夫 日時 2008年8月16日 (土) 12:43 01社会学の領域 | 個別ページ
「グランド・セオリーの帰還」から

 目次構成を考えている。とくにメゾ社会学の内容がすっきりしないことと、そこに入れにくかった民族や階層が社会問題論に組み入れていることの偏狭さから逃れたいことと、ルーマンが家族を教育や宗教や法などと同列に並べていることへの違和感を解消したかった。
 キーワードは「分化」である。いろいろたどってみた末にジョナサン・H・ターナーとディヴィッド・E・ボインズの「グランドセオリーの帰還」という論文にたどりついた。Jonathan H.Turner and David E.Boyns, "The Return of Grand Theory," Jonathan H.Turner(ed.), Handbook of Sociological Theory, Kluwer Academic/Plenum Publishers, 2001, New York, pp.353-378.
 ミクロとマクロをリンクする戦略には、ミクロ偏重主義(ブルーマー、ガーフィンケル)、マクロ偏重主義(パーソンズ、ダーレンドルフ、ブラウ)、中範囲の理論(マートン)、行為から構造へのモデル構築(ミードとパーソンズ)、形式社会学(ジンメル)、演繹的還元主義(ホマンズ)、行為主体と構造の二元論(キデンズ)、多次元的接近(リッツァー)がある。
 ターナーたちは、これらに対して、ミクロ、メゾ、マクロをリンクする理論としてグランド・セオリーを位置づける(359)。物理的世界における重力のように、さまざまな社会的な支配力(social forces)によって現実が支配されていると考えようと言う。そして、ミクロ、メゾ、マクロのそれぞれのレベルにおいて作用しているさまざまな支配力について考察を進めていく。
 マクロレベルの支配力は、人口、生産、再生産、分配、規制の五つである。メゾレベルの支配力は分化と統合である。ミクロレベルの支配力は感情、欲求、シンボル、役割、地位である。これらの支配力が相互に埋め込みされているかを問うというのがグランド・セオリーの課題ということらしい。埋め込み(embeddedness)が強調的に主題化されている。
 社会学の全体像を描くという私たちの目的から見て、このようなグランド・セオリーの構想は興味深い。ミクロな支配力が対人的相互作用の出会いを構造的産物として作り出し、メゾレベルの支配力が集合体群(corporate units)とカテゴリー群(categoric units)を構造的産物として作り出し、マクロレベルの支配力がさまざまな社会制度を構造的産物として作り出す。
 アイデアとして取り入れたいのは、メゾレベルを集合体群とカテゴリー群に分けて論じていることだ。もとはA.Hawley, A Theory of Human Ecology, 1986に由来するようだ。集合体群は目的・目標を追求するために組織された活動がそこでおこなわれるもの。カテゴリー群は個人を区別する一連の特徴のことである(362)。集合体群は、複合的組織、親族、都市、大きなコミュニティ、集団(ミクロレベルの出会いと区別された)を指している。カテゴリー群は年齢、ジェンダー、エスニシティ、社会階級を含んでいる。
 私にとって発見だったのは、とくにカテゴリー群の位置づけがメゾレベルであるということである。これによって、本書の構成も大幅に変更することになる。ただ、ちょっと疑問だったのは分化という支配力がメゾレベルに位置づけられていることだ。マクロレベルではないのかと思った。

社会など存在しない(サッチャー)

サッチャー発言の波紋。2008年8月23日 (土)
社会など存在しない(サッチャー)

 オルブロウ(Albrow 1999=2001:85-86)は、イギリスの元首相マーガレット・サッチャーの「社会など存在しない」という発言が論争を引き起こし、人びとが社会とは何かを考えるようになったと皮肉を述べている。
 ジョン・アーリもまた『社会を超える社会学』(Urry 2000=2006)の最初の章でサッチャー発言を取り上げるが、彼はより厳しくイギリス社会学界は適切に応えきれなかったと厳しく評価している。サッチャーは実在するのは「個々の男性と女性、そしてその家族」だけだとするのであるが、アーリはこの発言はハイエクに由来するとしている。
 池田信夫『ハイエク──知識社会の自由主義』(PHP新書、2008年)によると、1979年にサッチャーが保守党の党首に指名されたとき、ブリーフケースからハイエクの『自由の条件』を取り出し「これがわれわれの信じているものだ」と宣言したとのこと(86)。間宮陽介『ケインズとハイエク──〈自由〉の変容』(ちくま学芸文庫、2006年)によると、ハイエクは1940年代の一連の論文(これらはのちに『科学による反革命』として刊行)において、「社会」「経済組織」「資本主義」「帝国主義」などという概念は疑似概念であるとしているという(58)。
 サッチャーが「社会など存在しない」というとき想起されていたのはハイエクの理論だったのだろう。その意味では軽く一蹴できる話ではないような気がする。
Urry, John, 2000, Sociology beyond Societies: Mobilities for the Twenty-first Century, London and New York: Routledge. ジョン・アーリ『社会を超える社会学──移動・環境・シチズンシップ』吉原直樹監訳, 法政大学出版局, 2006.

懐かしいムーア

懐かしいムーア。
投稿者 野村一夫 日時 2008年8月23日 (土) 18:33 01社会学の領域 | 個別ページ
最初のグローバル社会学の構想(ムーア)
Moore, Wilbert E., 1966, “Global Sociology: The World as a Singular System,” American Journal of Sociology 71(5): 475-482. Reprinted in: Roland Robertson and Kathleen E. White (eds.), 2003, Globalization: Critical Concepts in Sociology, Vol.I, London and New York: Routledge, 47-56.

  Routledgeのグローバリゼーションのアンソロジーを見ると、1966年にウィルバート・ムーアが「グローバル社会学──ひとつの単数システムとしての世界」という論文をAJSに書いていることがわかった(Moore [1966] 2003: 47-56)。非常に先駆的な論文である。ムーアと言えば『社会変動』という訳書があり、学部のゼミで読んだ記憶がある。当時は「社会変動」が理論上のキーワードだった。『社会変動』の原書は1963年に出ているから、その三年後の論文ということになる。
 ムーアは「社会学のアメリカ化」とそれに伴う「データ領域に広がる偏狭さ」について述べたのちに、「開かれた心」として相対主義的な傾向についてふれる。さらにムーアは、ソローキンの『社会的・文化的動学』が西洋世界に限定されているとは言え、社会的・文化的システムと超システムを扱った画期的な業績だと評価する。超システム(super- systems)とは、さまざまな国民国家の単なる境界線あるいは歴史の短い時代を超越するものである(51)。また、パーソンズやディヴィスやレヴィたちが人類学を再発見したことにも注目する。これらの試みにはさまざまな矛盾があるものの、大いに役立つものだと言う。
 第一に、多文化国家は統計的にノーマルなものであって、現代世界にあって例外状態ではない。第二に、いくつかの最強に見える国家政体も、多元主義という長所をもっているものである。第三に、これらの社会内的な確認点は範囲としては脱国家的である。
 しかし、これらがそのままグローバル社会学なのではない。この方向の1つのステップにすぎない。世界はひとつの単数システムである。どこの個人の生活も、ますますすべての出来事とプロセスに影響を受けている。
 要旨はざっとこんなものである。グローバル社会学を具体的に構想しているわけではないが、冷戦時代にあって、よく構想できたものである。
 そう言えば、社会変動論を学んでいるときに、収斂理論というものも勉強した。日本では辻村明がキーパーソンである。東西冷戦時代に、東側と西側が収斂しているという理論で、当時は信じられなかったが、その後の歴史はその通りになった。今思うと、収斂理論はグローバル社会学の先駆けと言えなくもない。

スメルサーのジンメル記念講義1995から

Socs.jpからこっちに移します。

現在の私が考えていることの明確なスタートラインはスメルサーのジンメル記念講義である。それに関するメモ。

Smelser, Neil J., 1997, Problematics of Sociology: The Georg Simmel Lectures, 1995, Berkeley: University of California Press.



投稿者 野村一夫 日時 2008年8月19日 (火) 12:32 01社会学の領域 | 個別ページ

2008年8月17日 (日)

スメルサーのジンメル記念講義1995から



 Smelser(1997)の論点をいくつか拾っておこう。

 まず、彼は社会学のレベルを四つに分けている。ミクロ社会学(人と人との相互作用の分析を含む)、メゾ社会学(中間あるいは媒介的レベルで、公式集団、組織、社会運動、制度のいくつかの局面のような構造的だが下位社会的な現象)、マクロ社会学(社会的レベル)、グローバル社会学(多元的社会的レベル)である。かれは、この区別はあくまでも便宜的な区別と考えていて、社会的現実がこの四種類に分別できると考える物象化に陥らないようにと注意している(2)。

 社会学はたんなる社会科学ではない。社会学の知的アイデンティティには三つの伝統・志向性がある。科学的志向性、人文学的志向性、アート的志向性である(3)。

 ミクロ社会学の問題点は、いかにして他者の心を知り得るかである。デュルケムとウェーバーの場合を代表例として挙げたのちに、功利主義から現象学的解決まで、さまざまな「解決」が試みられてきたとする。

 次の問題は行為者の属性である。功利主義的な古典的経済学の採用するような行為者は、安定していて、大人で、情報をよく熟知していて、融通の利かない行為者である。このような仮定は特殊な状況下においてのみ有効であって、社会学では採用できない。もっと弛緩した状況を想定すべきである。

 ミクロ社会学の第三の問題は、人間生活の非合理性である。この点については、ニーチェ以来の伝統があるが、社会学にとって今なお影響力を持っているのがジンメルである。社会学的類型化に認知・意味・感情を組み入れることが必要である。

 ミクロレベルにおける超個人的構築物の例として「信頼」がある(22)。信頼は、心理学的な現象であると同時に、間主観的でもある。そして社会学的である。つまり、それは制度化されている。

 つぎにメゾ社会学の問題であるが、1990年頃にアメリカではMESOという社会学者グループができているという。では、メゾとは何かというと曖昧で、トクヴィルのいうアソシエーションやコーンハウザーのいう仲介者やコミュニティ生活、ボランタリー・アソシエーション、貿易組合、政党、市民社会(市民運動?)を含む。しかし官僚制組織こそがメゾレベルの典型である。それは相互作用する個人と大きな社会構造の間に存在する。メゾレベルがどのように個人とリンクするかというと、たとえば「社会的に構造化された動機づけ」である。パーソンズの「一般化されたメディア」つまり貨幣・権力・影響力・価値関与もそうである。

 このあとスメルサーはメゾレベルとして集団・公式組織・社会運動・制度の四つについて問題点を指摘しているが、気になるのは制度である。制度はマクロレベルではないのか。スメルサーは、たしかに制度はメゾレベルの限界地点にあり、マクロレベルの社会構造のコアであるという。しかし、制度とは、役割・規範的システム・合法化する価値の複合体であり、それらは制度化過程を通して永続性を獲得する一連の機能的に定義された活動を構成するのである(46)。ポイントは、制度が「想像されたもの」(imaginedness)である点である。

 マクロ社会学は国民社会を対象とする。そもそも社会科学はどれも国民国家を対象としてきた。それは政治学も経済学も社会学も人類学も同様である。この強力かつ閉鎖的な国民社会の概念は、たんに社会理論家たちの産物ではあるだけでなく、近代国民社会の組織化されたプロジェクトの産物でもある。

 スメルサーはマクロ社会学の争点として四点論じている。構造的分化、多様性、階層、社会統合の四つである。

 さらにスメルサーは、グローバル社会学をマクロ社会学の次に設定した。私としては、「全体社会」として従来語られながら事実上「国民社会」を指していたことを含めて社会学地図を書き換える必要を感じていただけに、この提案はとてもすっきりした。

 グローバル社会学と言ってもまったく新しいものではなく、グローバルを志向した社会学の伝統はある。マルクスとレーニンがそうであったし、その伝統を継ぐウォーラーステインの世界システム理論がそうである。マリノフスキーや近代化論ではベンディクス、そしてウェーバーもそうだった。

 スメルサーは現在進行中の世界的革命として四点を指摘している。第一に止まらない経済成長、第二に継続する民主化、第三に連帯とアイデンティティの革命。これは統合的なものである。第四に環境革命。これらはしばしば矛盾して問題を生じさせる。

 では、国際化を進めるメカニズムは何か。テーマだけでも書いておこう。第一に特殊化・分化・相互依存の進展。第二に社会問題の国際化。第三に国際的階層の動態。第四に文化のグローバリゼーション。第五に国際コミュニティの発達。

 最後に方法論的なメッセージが提示されるが、その前提は、国民国家は結局19世紀的な理念型であったということである。そこでは、富と権力と影響力と文化と社会的連帯が幸福な融合をなしえていたのである。そこから離れようとすると、社会科学としても社会比較分析としても考えるべき点が出てくる。



投稿者 野村一夫 日時 2008年8月17日 (日) 12:38 01社会学の領域 | 個別ページ

2008年8月16日 (土)

スメルサーのジンメル記念講義1995



 社会学を四つのレベルに分けるというアイデアはニール・J・スメルサーのものである。1995年にフンボルト大学で行われたジンメル記念講義が『社会学の諸問題』というタイトルで本になっている(Smelser 1997)。100ページほどの小さな本だが、このような総論は貴重である。今回は何かとスメルサーの編集したハンドブックや百科事典にお世話になっていて、この人の学識の広さに驚かされてきたが、中でもこの本が一番ヒントになった。大物でないと、なかなか書ける内容ではないので、翻訳がでるといいと思う。

http://www.ucpress.edu/book.php?isbn=9780520206755



UCPRESS.EDU

Problematics of Sociology

These skillfully written essays are based on the Georg Simmel Lectures delivered by Neil J. Smelser at Humboldt University in Berlin in the spring of 1995. A distillation of Smelser's reflections after nearly four decades…



コンテナ理論についてのメモ

コンテナ理論についてのメモ。
投稿者 野村一夫 日時 2008年8月23日 (土) 16:50 01社会学の領域 | 個別ページ
2008年8月21日 (木)
社会のコンテナ理論(オルブロウ、ベック)

 マルティン・オルブロウの『グローバル時代の社会学』(Albrow 1999=2001)を読んだ。岩手大学での集中講義をはさんで二回読んだが、社会学総論としては貴重なものだと思う。原題はSociology: The Basicsという、いたってかんたんなもので、邦題は内容に即したものである。オルブロウは昔『官僚制』という本で知っていたし、ウェーバー研究でも名前が出てきていたので、組織論専門の研究者かと思っていたが、最近はグローバリゼーションの重要な理論家になっている。『グローバル時代の歴史社会論』という訳書がでている。これについては日を改めて検討しよう。
 さて、本書の冒頭近くで単数形の社会と複数形の社会という表現が検討されている。複数形の社会を彼は個別社会と呼び「一群のコンテナ設備」のようなものだと言う(訳12)。通常は国を単位として論じることが多い。しかし、オルブロウは「社会とは潜在的にトランスナショナルなものである」(訳13)と言い、「地球上の特定の土地に付着する必要はない」(訳14)と言う。個別社会を国と同一視する見方は、 19世紀から20世紀にかけて成立した国際システムのニーズに応じて形成された社会を見ているのであり、当時の国民国家の見地と利害を反映したものであるとする。この考え方は本書を一貫しているものであって、邦題もこれを反映している。
 これについて、同じことをウルリッヒ・ベックも述べている。『グローバル化の社会学』(Beck 1997=2005)で「社会のコンテナ理論」を「知的な秩序権力としての社会学」と批判する。ベックによると、近代社会学の教科書は「社会のコンテナ理論」というべき図式を念頭に置いていると言う。そこでは近代社会は「あたかもひとつのコンテナに保管されるように国民国家の権力空間のなかに保存される」のである(訳51)。その意味では「国家による空間の支配」を前提としている。このような社会の内部空間は、さまざまな集合的アイデンティティと社会システムに整理されるが、「そのうちなる同質性は、本質において国家による統制のたまものである」(訳52)。
 これは社会学が国民国家の成立の時代に生まれたことに起因している。社会学と国民国家のつながりは深い。ベックはそれに対して別の考え方を導入しようとする。それが「グローバル化の社会学」というわけだ。それが対象とするのは「トランスナショナルな社会空間」である(訳55)。
 この続きは、別のところですることにしよう。ともあれ、ベックの本は1997年だから、1999年のオルブロウの本に先行する。オルブロウが「コンテナ」という言葉を使ったのはベックの議論を意識してのことだったのかもしれない。
 私はこれから教科書を書こうとしているわけだが、ベックの言う「国民国家にとらわれた秩序−社会学」(訳54)を書こうとしている可能性は高い。既成の文献に準拠するかぎり、大部分はそうならざるを得ない。しかし、未だに「社会のコンテナ理論」を脱した社会学の全体像は明らかではない。現在は、こういう造語が可能であるならば「社会学のグローバリゼーション論的転回」が行われている真っ最中なのである。しっかりと様子見をすることにしたい。

投稿者 野村一夫 日時 2008年8月21日 (木) 17:21 01社会学の領域 | 個別ページ
2008年8月19日 (火)
諸学の社会学化と埋め込み

 経済学は経済を「経済の論理」で説明する。政治学も政治を「政治の論理」で説明する。教育学も宗教学も、それぞれの対象を対象内在的な論理で説明する。
 それに対して、社会学、とくに領域社会学は、各領域現象を社会構造に埋め込まれているものと見て「社会の論理」で説明する。経済社会学や宗教社会学が成り立つのは、このしくみ(つまり「埋め込み」)のためである。
 いわゆる「諸学の社会学化」とは、隣接科学が対象固有の論理だけでは説明できない現象を解くために「社会の論理」へ踏み出す事態を指している。こうなると、区別はつかなくなる。

投稿者 野村一夫 日時 2008年8月19日 (火) 14:14 01社会学の領域 | 個別ページ
ドメスティックな社会学

 一昨日、不揃いだった「講座社会学」(東京大学出版会)が揃った。といっても、11巻の「福祉」が未刊であるが。一日中、これらを眺めていて気づくのは、ドメスティックな社会学だということだ。そもそも英語タイトルはSociology in Japanなのだから、まぎれもなく日本の社会学である。高水準の論考が揃っているので、参考になることは間違いないが、英語圏の社会学テキストや百科事典やハンドブックなどとの重なりがあまりないのが気になる。孤立無援の社会学。それでいいのかという気がしないでもない。応用問題ばかりで基礎とのつながりが見えないのも気になる。
 このように、日本の社会学は明らかに「日本製の社会学」になりつつある。これは「輸入学問からの脱皮」という点でひとまずは喜ぶべきことである。この点については、執筆者もかなり意識しているのではないかと感じた。
 しかし、その一方で懸念もある。それは、社会学とその環境(つまり大学や研究機関)に実証研究への圧力が非常に強くなっていることに起因していると考えられるからだ。つまり、実証的でなければ評価されないという現実がある。実証的研究をしていないと業績として評価されないために、そうでない人はプロになりにくい現状がある。理論研究やエッセイ型の研究は社会学の知識在庫に豊富に含まれているが、それらはあまり評価されない。だから、「講座社会学」のような場所には、一部を除いてもっぱら実証研究に携わる社会学者が書くことになる。
 実証的でないと評価されないとなると、フィールドは日本国内にほぼ限定される。人類学者のように海外にフィールドを持つことが必須要件ではない。せいぜい二カ国比較が限界である。その結果、日本の社会学者が「社会」として対象化できるのは、もっぱら日本に限られてしまう。グローバリゼーションの圧力がこんなに強いのに、ひとり日本社会学は「日本社会の社会学」に閉じこもってしまいがちである。グローバリゼーションを重視する社会学者や研究者は、ながらく社会学が国民国家の枠組から出られなかったと批判しているが、せめて英語圏に視野を広げて学び直す必要があるのではないかと考えている。
 もちろん、すべての章において日本社会学への配慮は必要である。日本の場合はどうなのかを提示してはじめて読者は自分の体験する現実へリンクできるだろうから。これは、本書が想定する中級者においても同様である。
 文化的多様性を考慮すると、伝統社会的ファクターについて説明しなければならない領域社会学の一部は、どうしてもドメスティックになってしまうことが予想されたる。たとえば家族、宗教、村落がそうである。逆に、経済や都市やマス・メディアはグローバルに議論しやすい。領域によって、書き分ける必要がありそうだ。

「20世紀思想としての社会学」2000年の企画書

すでにどこかのブログに出したかもしれませんが、2000年あたりに社会学史のテキストを書くことになって、ざっくり書いた企画書です。社会理論に関する対話の手ががりになればと思ってノートに出しておきます。
企画
社会学史ハンドブック
20世紀思想としての社会学
野村一夫
A5並装(組み方は別紙)
序論
 一段組 46字*27行=1242字 下に空白
本文1項目2ページ標準
 各章とも要点を一文で表記(暗記用)
 著作年譜をつける
 見出し側ページ 25字*23行*2段=1150字 
  これに脚注10字 ただし原著の写真も入れたい 計三段組
  項見出しは三段抜き4行分
 年譜側ページ 25字*27行*2=1350字
  年譜幅は本文9行分、ただし年譜はテーマによって縦幅が変化
 標準テーマの本文(小見出しを含む)25字*(23+23+18+27行)=25*91=2275字(5.68枚)
 全42項目→2275*42/400=239枚
コラム1項目1ページ標準
 テーマ史コラム(13)
 系譜研究(受容史と影響史)(7)
 名著ピックアップ(7)
 計27プラスαで30
本文とコラム
 2*42+30=114ページ
付物(参考文献、人名索引、事項索引)
序論
■二〇世紀思想としての社会学
 一九九九年、縁あって「社会学史」の講義を担当したさい、まず困ったのは、社会学史をバランスよく網羅したコンパクトな通史がないことだった。もちろん、すぐれた解説はたくさんある。しかし「社会学史」という科目は通常、一年か二年に設定されているものである。右も左もわからない学生には、いささか高度すぎると感じるものが多かった。しかも、一ダースもの研究者によって思い思いに書かれた章がただ並べてあるテキストでは学生が混乱してしまう。むしろ、ステレオタイプ(型にはまった表現)な説明が整然と整理されているほうが、導入としては都合がよいし、試験のさいには丸暗記しなければならないという、およそ非社会学的な条件の下では、そのほうがかえって学生の負担が少なくてすむのである。初学者はステレオタイプから入るべきであり、そののちにステレオタイプが見逃しているものや、深層にある理論的含意を吟味する段階に踏み入るのが自然である。そのかわり、ひとたび興味をもった学説や古典的巨匠があれば、原典にあたり研究書にふれてほしいと思うので、(著者自身の参考書をふくめて)参考文献をきちんと網羅してほしい。
 つまり、全体を手軽に俯瞰できる通史であること、リソースがきちんと提示されていること、そしてできればひとりで書いたもの、こういう見通しのよいテキストが欲しかった。
 そんなわけで「通史がないのであれば書いてしまえ」と、講義の進行に即して書き上げたのが本書である。つまり、本書は私自身が欲しかったコンパクトな「社会学の通史」であり「リソースブック」である。したがって、本書において私はあくまでも水先案内人に徹している。わかりやすさのためにステレオタイプも辞さないと決めて書いた。というのは、社会学者はステレオタイプを嫌うので、このような教科書を書くさいにも、ついステレオタイプとの距離を表現しようとして、複雑な説明をしてしまうことが多いのである。
 もちろんリスクは承知している。社会学史研究は極度に高度化し、一巨匠・一流派について総括的な著書を発表するのでさえたいへんな労力を要する時代になった。本格的な通史を構成するというのは、ほとんどできそうにないし、最新の学説研究の成果を盛り込むことに関しても禁欲的にならざるをえない。したがって本書はオリジナリティや斬新さを競うものではない。専門家の眼を過剰に意識することなく、あくまでも読者に向かって語りたいと思う。創意工夫はむしろエディターシップとして発揮したつもりである。
 他方、社会学史は公務員試験などで出題対象となることが多い。そういう目的で(やむなく)社会学史の勉強をする人も多いように思う。しかし、試験対策用に刊行された参考書の類を読むと、社会学者としてかなり問題を感じるものが多い。勉強することで読者はきっと混乱するにちがいない。これでは社会学が誤解されてしまう。そこで、本書では、そういう人たちに少しでも系統的に社会学史を勉強していただけるよう、公務員試験に出題されることの多い項目をきちんとカバーするように配慮した。たとえばギディングスの社会学(ギデンズではないのでご注意を)など、今日の社会学ではほとんど問題にされないようなものも、きちんと位置づけて解説した。
 以上が本書執筆の動機である。
 しかしながら、このような一書を企画するにさいして、それなりの志がないわけではない。それは、社会学の歴史を俯瞰することによって、社会学を二〇世紀特有の学問運動すなわち「二〇世紀思想」として総括的に理解することである。
 手短に言うと、私の作業仮説は次のようなものである。
 社会学は、自然科学のインパクトによって生じた社会科学のさまざまな試みの中から芽生え、一世紀前の「世紀の転換期」にディシプリンとして自立した。そのさいの基本思想は、きわめて二〇世紀的なもので、それが他の学問に対する大きな特徴になってきた。しかし、それが二〇世紀的であるがゆえに、今世紀を通じてしだいに他の諸学との離合集散が進み、脱領域的な性格を強く帯びるにいたった。今日では、社会学はもはや孤立したディシプリンではなく、脱領域的な社会文化研究のひとつのインターフェイスにすぎないと考えたほうが適切な研究状況になっている。
 社会学とは二〇世紀的な現象だったのであり、二一世紀においては過去形で語られる学問運動といえるのではないか。もちろん、この傾向は「諸学の社会学化」と見なすことも可能である。政治学も経済学も文学理論も言語学も、そして生物学や免疫学でさえもが、かつては社会学の独壇場と見なされていた問題領域について立ち入った議論を展開している。これはまぎれのない事実である。逆にいうと、社会学にはまだまだ展開可能な理論的萌芽がたくさんあるのだ。しかし、二一世紀においては脱領域的社会文化研究の有力な養分として理解するほうが現実的ではないかというのが私の見解である。
 すでに社会学自身は一歩先に二一世紀的な学問潮流のただなかに踏み出している。それは社会学解体の道でもあるが、同時に、ディシプリンをもっていなければ途方にくれてしまうような茫漠とした二一世紀の知的状況に対してナヴィゲート的意義をもつ、一種のベースキャンプとして存在感を増すにちがいない。今日、社会学史を学ぶ意義はここにあると感じるのである。社会学的知識在庫の総点検をするいい時期だと思う。
 そういう意味で、本書は、私自身の社会学への愛着の表現でもあり、同時に社会学への惜別の表現でもある。しかし、それを読者に押し付ける気はさらさらない。社会学的知識在庫の総点検をすることによって、とにもかくにも読者自身の知的世界構築の一助になれれば本望である。
■本書の構成
 まず社会学史全体を五段階に整理した。このうちひとつが「前史」であり、もうひとつがすでに始まっている新段階の「前史」である。「本史」は三段階に分けている。
(1)一九世紀社会理論(一八九〇年ごろまでの社会学前史)
(2)二〇世紀的社会理論の誕生(一八九〇年代から一九二〇年代まで)
(3)三体制対立時代の社会学(一九三〇年代から一九五〇年代まで)
(4)対抗理論の時代(一九六〇年代から一九八〇年代まで)
(5)脱領域時代の社会理論(一九九〇年代以降の二一世紀思想前史)
 社会学の起源をサンシモンやコントやモンテスキューなどに求める伝統的な解釈に対して、この区分はもっと近いところに社会学の直接的起源を主張することになるが、これは社会学を二〇世紀思想として整理するという本書の基本コンセプトに基づく処置である。社会学史全体の位置づけ作業にこそ本書の「志」があるので、伝統的・従来的な社会学史の構成とは異なるユニークな仕様になっている。
 それに対して本文はオーソドックスな社会学者列伝形式をとっている。「マルクスとエンゲルス」と「ウェーバー」を除いて、一項目を見開き二ページに収めた。ごくかんたんに人物像と人生を著作年譜とともに提示して、そののちに社会学理論を論点別に解説した。ステレオタイプは辞さないが、硬質な事典的スタイルに陥らないよう、なるべくわかりやすくかみ砕いて説明した。バランスよく俯瞰するためには、大部な記述は控えなければならない。本書では、初学者にとって学びやすいところにしぼって説明を工夫した。また、知識社会学的視点で見ることもたいせつなので、人生上の出来事との関連もつけておいた。あくまでも生身の人間が社会学をおこなうことを忘れてはいけない。著名なフレーズは引用するようにして一種の社会学名言集をかねるように心がけた。必要に応じて注(一口コメント)を欄外に設けた。
 その上でさらに詳しく学びたい人のためにリソースリスト(参考文献)を用意した。けっして網羅的なものではないが、ここから代表的な研究書と研究者を把握してほしい。そこから始めればオーソドックスな理解に達するはずである。
 この列伝形式は主として社会理論に着目して項目が選ばれているが、社会学史は社会理論だけから構成されるわけではない。そもそも社会学史には三つの歴史が交錯している。
(1)社会理論の系譜??「社会とは何か、社会学とは何か」についての議論
(2)方法論の歴史??「いかにして社会現象に迫るか」についての議論
(3)テーマ史??「何を研究すべきか」についての議論
 このうち(2)と(3)については特定の巨匠だけを解説するのではうまく行かない。潮流として把握する必要がある。社会調査史もふくめて、テーマ史や系譜研究のページを設定した。これらも当然、社会学史の一部であるからだ。
 なお、解説テーマの選択や論点の切り出しについては、社会学理論史に関するジョージ・リッツァーの一連のテキストを模範例として参照した。
George Ritzer, Classical Sociological Theory, Second Edition, McGraw-Hill, 1996.
George Ritzer, Modern Sociological Theory, Fourth Edition, McGraw-Hill, 1996.
George Ritzer, Postmodern Social Theory, McGraw-Hill, 1997.
George Ritzer, Sociological Theory, Fourth Edition, McGraw-Hill, 1996.
 その他、社会学史全般の参考文献は巻末に解題つきでリストアップしておいた。翻訳がなく、いちいち原典にあたれない場合は、これらの文献を比較・参照して論点を整理した。
■社会学史の読み方
 はじめにお断りしておくが、社会学に本格的に取り組もうという読者は、けっして本書だけで満足してはいけない。本書を手がかりに、さらに本格的な勉強に入っていただきたい。そこで、社会学史を学ぶさいの基本的方法について、かんたんにまとめておこう。
 まずしなければならないことは、個々の社会学研究を著者の意図にしたがって読むことである。とくに古典とされた作品には、巷間伝えられているような論点以外の豊富なエッセンスがふくまれているものである。ある特定の部分だけを取り出して議論することからはしばしば落ちこぼれる、このようなところにも留意して取り組むことが必要である。古典に直接当たる意義はここにある。
 しかし、それは同時に作品の外側からも理解されなければならない。ある古典的作品はそれ自体、完結した作品世界をもっているが、同時に外部に開かれたものでもある。
 第一に作者の思想形成過程に位置づけること。それは研究者の個人史に即して理解されなければならない。また、著者の死後に編集されたものなど、複雑な経緯をへて公刊された作品については、作品の成立史に即して読む必要もある。たとえばマックス・ウェーバーの有名な「社会学の基礎概念」を含む『経済と社会』は、未刊草稿を編集したものであるので編集者の解釈が濃厚に反映しているのだが、その意図がしばしばウェーバー自身の意図と混同されてきたことが、最近の研究では大きな問題になってきた。
 第二に、他の競合研究との関連を見ること。たいていの古典的著作は、批判すべき研究というものがあって、それらに対する知的反応としての側面をもつものである。「そうではなくて、こうなのだ」という文脈をつかまなければ、なぜその著者がある特定の論点を強調するのかが理解できないことがある。たとえばジンメルの形式社会学はペダンチックな分類学として考案されたものではなく、百科全書的な総合社会学に対する批判として構想されたものであることが重要なのだ。
 第三に、時代状況との関連を考慮すること。社会学はその時代状況に対する知的反応でもある。たとえ書斎にこもってばかりいる社会学者といえども、その時代を意識しない社会学者はいない。社会的背景や個人的事情を考慮した、いわゆる知識社会学的研究が必要である。
 さらに、社会学者の仕事は公刊されたのちにも歴史をもつ。誤用や転用もそれ自体が社会学史の一部である。理解されない研究や忘れ去られた研究がのちに評価されることも多い。そうした再評価もまた社会学史の一部である。受容史・影響史・解釈史といった側面にも注意しなければならない。
 したがって、たとえばマックス・ウェーバーを理解するには、その人生の絶頂期における挫折の意味を理解し、ニーチェの影響を考慮しつつ、非合理的なるものと合理的なるものとの緊張関係において著作を読むことで、のちに有名になった官僚制概念とカリスマ概念の含蓄ある関係も理解できるのである。そして、なぜかれが無視され誤読されながらもしだいに評価を高めていったのかも実感できるはずである。社会学史の研究とは通常このような作業なのである。
 しかも、さらに強調しておかなければならないのは、巨匠の歴史と研究史とは必ずしも一致しないということである。とくに実証研究においては、ウェーバー級の巨匠が不在でありながら一大潮流をなした研究系譜がいくつも存在する。頂上から展望することは重要であるが、頂上を縦走するだけでは山脈全体を理解したことにならないのだ。
 以上のことを踏まえつつ、では、社会学という学問の歴史をたどることにしよう。
第1部 一九世紀社会理論(社会学前史)
■一九世紀社会科学
自然科学の衝撃と社会の産業化
ウォーラーステイン
社会学の起源諸説
ヴィーコ説、モンテスキュー説、イギリス経験論説、医学説、社会統計学説
■総合社会学
サンシモンとコント
スペンサーと社会進化論
■マルクスとエンゲルス×2
第2部 二〇世紀的社会理論の誕生
■世紀の転換期の社会学(ヨーロッパとアメリカ)
●ヨーロッパ
●アメリカ
■デュルケムとデュルケム学派
■ジンメル
■ウェーバー×4
■シカゴ学派と社会心理学
■シカゴ学派と都市社会学
第3部 三体制対立時代の社会学
■フランクフルト学派と亡命知識人
ブハーリンの粛清
 一九三三年のヒトラー政権が生まれた時点から、
冷戦時代
社会学が存在拘束性を
隷属と反発
■マンハイム
■ルカーチと西欧マルクス主義
■ラザースフェルトと社会調査
■パーソンズ
■マートン
■機能主義への収斂
第4部 対抗理論の時代(外部の再発見と社会学の拡張)
■反省社会学
■シンボリック相互作用論
■交換理論
■闘争理論
■現象学的社会学
■エスノメソドロジー
■ハーバーマス
■ルーマン
■フェミニズム
■レイベリング理論
第5部 脱領域時代の社会理論
■冷戦以後の地球社会と社会科学の変貌
■歴史社会学と社会史
■世界社会学と国際社会学
■ギデンズ
■ブルデュー
■社会構築主義
■言説分析
■カルチュラル・スタディーズ
■合理的選択理論と数理社会学
■パラダイム統合あるいは社会学の解体
 いったい何が「二〇世紀的」だったのか。私は次の三点にあると考える。
 第一に、非実体論・過程論的発想。相互作用論。
 第二に、知識社会学的発想。メタ理論的自省。理論が入れ子構造を持つ。
 第三に、脱領域性。二〇世紀には社会学固有の特徴(困難?)と見なされていた脱領域性が、二一世紀には通常になる。
テーマ史コラム(本文に繰り込み)
■資本主義の歴史
■社会主義の歴史
■ファシズムの歴史
■西欧中心主義
■男性中心主義
■音楽社会学
■消費社会論
■宗教社会学
■マス・メディアの影響
■教育社会学
■環境問題
■社会調査法
■フィールドワーク
■挫折の社会学
■医療社会学
系譜研究(受容史と影響史)(本文に繰り込み)
■マルクス主義の系譜
■実証研究の系譜
■解釈主義の系譜
■ミクロ社会学の系譜
■文化論の系譜
■権力論の系譜
■社会問題論の系譜
名著ピックアップ(本文に繰り込み)
■テンニース『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』
■モース『贈与論』
■ウェブレン『有閑階級の理論』
■オルテガ『大衆の反逆』
■パレート『エリートの周流』
■リースマン『孤独な群集』
■ミルズ『社会学的想像力』
社会学史全般の参考文献
■社会学史の概説書(日本)
●那須壽編『クロニクル社会学??人と理論の魅力を語る』(有斐閣アルマ1997年)。
 17の社会学者と社会学者集団ごとに解説した入門書。とくに社会学史全体としては主張せず、個々の理論的魅力に記述をしぼっている。解説は目配りの利いたもので、どれも一級。「コールマンと合理的選択理論」が入っているあたりが日本のものではユニーク。「ゼミナール」と「読書案内」も便利。
●新睦人・大村英昭・宝月誠・中野正大・中野秀一郎『社会学のあゆみ』(有斐閣新書1979年)。新睦人・中野秀一郎編『社会学のあゆみパートII??新しい社会学の展開』(有斐閣新書1984年)。
 この二冊は教科書に採用されることの多い定番テキスト。今となっては少し古い。
●中久郎編『社会学の基礎理論』(世界思想社1987年)。中久郎編『機能主義の社会理論??パーソンズ理論とその展開』(世界思想社1986年)。中久郎編『現代社会の諸理論』(世界思想社1990年)。
 この三冊で「社会学の系譜」というひとつのシリーズになっている。少し詳しく社会学史を学ぶときの定番概説書。
●富永健一『現代の社会科学者??現代社会科学における実証主義と理念主義』(講談社学術文庫1993年)
 社会学史ではなく社会科学史。社会学を社会学史の文脈で捉え返すときには必見。著者のユニークさは実証主義と理念主義の二大潮流において整理するところで、その意図のひとつが理念主義批判にあるため、オピニオン性の高い論争的な学説史になっている。
●新明正道・鈴木幸壽監修『現代社会学のエッセンス??社会学理論の歴史と展開[改訂版]』(ぺりかん社1996年)。
 初版は1972年刊という「なつかしい」テキストが最近、改訂版になった。27人の巨匠の学説解説の形式になっている古式ゆかしい社会学史だが、この本のよいところは、高田保馬や松本潤一郎といった往年の日本の社会学者やケーニヒやシェルスキーといったドイツ系社会学者がきちっとフォローされているところである。
■社会学史の概説書(翻訳)
●R・コリンズ、M・マコウスキー『社会の発見』大野雅敏訳(東信堂1987年)。
「社会とは何か」に焦点を定めた社会学通史。ニーチェやフロイトやソレルなどが重視されたユニークさもあるが、一貫した視点で解説されており、学者相互の思想的連関について注意深く言及されている。分担執筆による社会学史概説書にありがちな断片的な説明に終わっていないところがいい。
●ランドル・コリンズ『ランドル・コリンズが語る社会学の歴史』友枝敏雄訳者代表(有斐閣1997年)。
 原題は「社会学の四つの伝統」。(1)紛争理論、(2)功利主義・合理的選択理論、(3)デュルケム理論、(4)ミクロ相互作用論の四伝統について解説されている。いかにもコリンズらしい選択だが、案外このようなユニーク路線で社会学史を見直してみるのもいいかもしれない。「プロローグ??社会科学の誕生」から始めているところや「影の社会学者」としてエンゲルスに着目する点などに見識を感じる。「社会学における恋愛市場と結婚市場の発見」とか「アーヴィン・ゴッフマンの逆襲」などもおもしろい。
●ジョセフ・H・アブラハム『社会学思想の系譜』安江孝司・小林修一・樋口祐子訳(法政大学出版局1988年)。
 原典のアンソロジーに付せられた総論部分の翻訳。少し古いものだが、「古代と中世の社会学」から始まる、スケール感のある展望がえられます。20世紀初頭までの「社会学前史」を知るのにいい。
●ウォーラーステイン+グルベンキアン委員会『社会科学をひらく』山田鋭夫訳(藤原書店1996年)。
 社会学史ではなく社会科学史。社会学史は社会科学史の中で理解されなければならない。短いものなので必ず読んでおきたい。
●アラン・スウィンジウッド『社会学思想小史』清野正義・谷口浩司・鈴木隆訳(文理閣1988年)。
 ヴィーコを起点にするユニークな社会学史。マルクス主義を軸に転回するものとして社会学思想を跡付けているが、これはこれで一貫している。
●レイモン・アロン『社会学的思考の流れ(I・II)』北川隆吉・平野秀秋・佐藤守弘・岩城完之・安江孝司・宮島喬・川崎嘉元・帯刀治訳(法政大学出版局1974・1984年)。
 アロンの有名な社会学史講義。モンテスキュー、コント、マルクス、トックヴィル、デュルケム、パレート、ウェーバーの七人の巨匠について、フランス社会学の巨匠がじっくり解説してくれる。
●D・マーチンデール『現代社会学の系譜』新睦人訳者代表(新装版・未来社1974年)。
 2段組600ページの大作。きわめて広い視野の下に「社会学史」の全体像が整理されている貴重な仕事。社会学周辺の研究や、今となってはマイナーな社会学者(たとえばブーグレとかチェーピンとかオッペンハイマーとか)について勉強するのに適している。巨匠の学説を追うだけでは社会学史とは言えないので、そういう意味では逃げも隠れもしない正統派の社会学史。
●George Ritzer, Classical Sociological Theory, Second Edition, McGraw-Hill, 1996. George Ritzer, Modern Sociological Theory, Fourth Edition, McGraw-Hill, 1996. George Ritzer, Postmodern Social Theory, McGraw-Hill, 1997. George Ritzer, Sociological Theory, Fourth Edition, McGraw-Hill, 1996.
 積み上げると10センチぐらいになる。"Sociological Theory" は前三冊の総集編で、また前三冊の冒頭部分にはかなりの重複があるので、オリジナルコンテンツとしては5センチぐらいか。「社会学のメタセオリー化」というコンセプトが軸になっている。これが本書の「導きの糸」である。
■社会学史の再構成をふくむ理論書
 こちらは社会学史の本ではなくオリジナルな理論書。しかし、その理論を導出する手続きとして社会学史の再構成を手段としているものである。かえってこういう著作の方が、社会学の歴史の見方に大きな影響を与えてきた。主張性の高い社会学史として読める。
●タルコット・パーソンズ『社会的行為の構造(全五巻)』稲上毅・厚東洋輔ほか訳(木鐸社1974-1989年)。
 マーシャル、パレート、デュルケム、ウェーバーの四大巨匠の理論の上に主意主義的行為理論を構築した研究。原著は1937年のもの。アメリカ社会学に大きな影響を与えた。とくに、アメリカ社会学へのウェーバー受容はここから始まるといってもいいくらい。
●A・W・グールドナー『社会学の再生を求めて(合本版)』岡田直之ほか訳(新曜社1974-1975年)。
 原題は「西欧社会学の来るべき危機」。邦訳はかれの次の著作のタイトルに近いものになっている。社会学史を機能主義およびその以前と以後のほぼ三つにわけて把握し、その下部構造を論じている。一種の知識社会学的な社会学史。筆者のような七〇年代シラケ世代の社会学フリークにとってバイブル的著作だった。
●ユルゲン・ハーバーマス『コミュニケィション的行為の理論(上・中・下)』河上倫逸ほか訳(未来社1985-1987年)。
 ハーバーマスの主著。著作構成がパーソンズの『社会的行為の構造』に似ているのが意外だった。ウェーバー、フランクフルト学派、ミード、デュルケム、言語理論、パーソンズなどが丹念に説明されている。
●アンソニー・ギデンス『社会理論の現代像??デュルケム、ウェーバー、解釈学、エスノメソドロジー』宮島喬ほか訳(みすず書房1986年)。
 社会学史断章といった趣のある論文集。このころのギデンズの解釈は中庸なところがあるので評価の参考になる。論文集だが読みやすい本。
●アンソニー・ギデンス『社会学の新しい方法規準??理解社会学の共感的批判』松尾精文・藤井達也・小幡正敏訳(而立書房1987年)。
 前半で理解社会学ないし解釈学系の社会学の内容を整理している。ギデンズがオリジナルな社会理論を構築するさいの転換点となった作品。
●アンソニー・ギデンズ『社会理論と現代社会学』藤田弘夫監訳(青木書店1998年)。
 すっかり巨匠になってしまったギデンズの講演やレクチャーなどをもとにした論文集。社会学史全般にわたってフォローしている。「社会とは何か、社会学とは何か」を考える上でとても参考になる。
●今田高俊『自己組織性??社会理論の復活』(創文社1986年)。
 自己組織性を主軸にした自省的機能主義を提唱している研究書だが、既存の行為論系の学説について詳しく論じられている。
●ウォーラーステイン『脱=社会科学??一九世紀パラダイムの限界』本多健吉・高橋章監訳(藤原書店1993年)。
 副題は「19世紀パラダイムの限界」。19世紀パラダイムに抵抗したマルクスと、時空概念を導入して新しい社会科学の可能性を提示したブローデルを中心に、社会科学の歴史的性格が論じられている。21世紀的社会科学を考える上でもっとも重要な著作のひとつ。

ソキウス・シューレ起動

最近はWordPressで作成するのが少し億劫になってきました。なのでBloggerでソキウスを作り直そうかと思いつきました。旧サイトのsocius.jpは当分そのままにするとして、講義ではこちらのSocius.schuleを使うことにします。「ソキウス・シューレ」と呼びます。シューレはドイツ語で学校のことです。なんとなく「学び舎」のにおいを感じるドメインだと思います。schuleのcをお忘れなく。
2019年9月12日
野村一夫

調整しています

1995年8月からソキウス(Socius)を公開してきました。最近は講義科目でも使ってきましたが、使っているWordPressの操作が少しメンドーになってきたので、Blogger上にSocs.schuleを作って、こちらでやってみようかと思っています。テキストベースでデフォルトから構築していきます。
2019年9月12日 野村一夫

2019年8月5日

GAFAMと付き合う🍀

朝の中央線。AndroidからBloggerを書いている。これなら車中でも書ける。写真の入れ方がまだわからないが。
久々にBloggerを復帰させてみて、いっそ全部Google仕様にしたれとChromebookを復活させ、各種AppleマシンもアプリをGoogle主軸に模様替えしたところ。こういうことはいっぺんにやらないとね。どのみちブラウザをChromeに統一してきたので、この作業はわりとかんたん。世間ではMicrosoftで統一している人や組織が多いが、ここはソーシャルメディアに弱い。なんといってもスマホがほとんどない。クラウドのOffice 365になってマシンのプラットホームの制約がなくなって良かった。完全なクラウドでないと、スマホとデスクトップを取っ替え引っ替え使う者にとっては不自由。だからLINEからも手を引いた。アカウントがスマホの数だけあるから、とてもメンドーなのだ。
Bloggerも今やWordPressが使えるんだね。レンタルサーバーを借りる意味はないかもしれない。
Amazonはここのところ離脱モードで、本は紀伊国屋書店、食べ物雑や日用品は楽天西友に切り替えつつある。
Apple主軸にずっとやって来たが、パソコンにしてもスマホにしても高価になってしまったので、なかなか買い替えられないのがツラい。同じ価格帯でもWindowsマシンやAndroidマシンやChromebookの方が使いでがある。特にスマホに関してはAndroidの方が融通がきくし、カメラがとても良い。
巨大プラットホームも、どれか1つに決めてしまえば悩むことはないのだが、全部LINEで済ます人たちみたいに制約が苦にならないという境地には至らない限り、行脚は続くのである。

2019年8月4日

Androidから書いてみた。

わりと良くできてるかなあ。すばやいのがよろしい。

Setting Blogger named "socs.schule"

schuleドメインは学び舎な感じがしていいなと思い、衝動的にsocs.schuleを立ち上げてみました。Bloggerを使うのは久しぶり。Googleならではの仕掛けを活用できないものか考えます。

読書ノート始めます

現在進行中の研究計画で使用する予定の文献レビューを始めます。読書ノートのようなものになる予定です。できることなら週刊誌に連載するように、ひとまとまりの文献について1週間でメモしていきたい。積ん読している文献を読みながら研究計画における役割を確定していく予定です。レーニンの哲学ノー...