2019年9月12日

コンテナ理論についてのメモ

コンテナ理論についてのメモ。
投稿者 野村一夫 日時 2008年8月23日 (土) 16:50 01社会学の領域 | 個別ページ
2008年8月21日 (木)
社会のコンテナ理論(オルブロウ、ベック)

 マルティン・オルブロウの『グローバル時代の社会学』(Albrow 1999=2001)を読んだ。岩手大学での集中講義をはさんで二回読んだが、社会学総論としては貴重なものだと思う。原題はSociology: The Basicsという、いたってかんたんなもので、邦題は内容に即したものである。オルブロウは昔『官僚制』という本で知っていたし、ウェーバー研究でも名前が出てきていたので、組織論専門の研究者かと思っていたが、最近はグローバリゼーションの重要な理論家になっている。『グローバル時代の歴史社会論』という訳書がでている。これについては日を改めて検討しよう。
 さて、本書の冒頭近くで単数形の社会と複数形の社会という表現が検討されている。複数形の社会を彼は個別社会と呼び「一群のコンテナ設備」のようなものだと言う(訳12)。通常は国を単位として論じることが多い。しかし、オルブロウは「社会とは潜在的にトランスナショナルなものである」(訳13)と言い、「地球上の特定の土地に付着する必要はない」(訳14)と言う。個別社会を国と同一視する見方は、 19世紀から20世紀にかけて成立した国際システムのニーズに応じて形成された社会を見ているのであり、当時の国民国家の見地と利害を反映したものであるとする。この考え方は本書を一貫しているものであって、邦題もこれを反映している。
 これについて、同じことをウルリッヒ・ベックも述べている。『グローバル化の社会学』(Beck 1997=2005)で「社会のコンテナ理論」を「知的な秩序権力としての社会学」と批判する。ベックによると、近代社会学の教科書は「社会のコンテナ理論」というべき図式を念頭に置いていると言う。そこでは近代社会は「あたかもひとつのコンテナに保管されるように国民国家の権力空間のなかに保存される」のである(訳51)。その意味では「国家による空間の支配」を前提としている。このような社会の内部空間は、さまざまな集合的アイデンティティと社会システムに整理されるが、「そのうちなる同質性は、本質において国家による統制のたまものである」(訳52)。
 これは社会学が国民国家の成立の時代に生まれたことに起因している。社会学と国民国家のつながりは深い。ベックはそれに対して別の考え方を導入しようとする。それが「グローバル化の社会学」というわけだ。それが対象とするのは「トランスナショナルな社会空間」である(訳55)。
 この続きは、別のところですることにしよう。ともあれ、ベックの本は1997年だから、1999年のオルブロウの本に先行する。オルブロウが「コンテナ」という言葉を使ったのはベックの議論を意識してのことだったのかもしれない。
 私はこれから教科書を書こうとしているわけだが、ベックの言う「国民国家にとらわれた秩序−社会学」(訳54)を書こうとしている可能性は高い。既成の文献に準拠するかぎり、大部分はそうならざるを得ない。しかし、未だに「社会のコンテナ理論」を脱した社会学の全体像は明らかではない。現在は、こういう造語が可能であるならば「社会学のグローバリゼーション論的転回」が行われている真っ最中なのである。しっかりと様子見をすることにしたい。

投稿者 野村一夫 日時 2008年8月21日 (木) 17:21 01社会学の領域 | 個別ページ
2008年8月19日 (火)
諸学の社会学化と埋め込み

 経済学は経済を「経済の論理」で説明する。政治学も政治を「政治の論理」で説明する。教育学も宗教学も、それぞれの対象を対象内在的な論理で説明する。
 それに対して、社会学、とくに領域社会学は、各領域現象を社会構造に埋め込まれているものと見て「社会の論理」で説明する。経済社会学や宗教社会学が成り立つのは、このしくみ(つまり「埋め込み」)のためである。
 いわゆる「諸学の社会学化」とは、隣接科学が対象固有の論理だけでは説明できない現象を解くために「社会の論理」へ踏み出す事態を指している。こうなると、区別はつかなくなる。

投稿者 野村一夫 日時 2008年8月19日 (火) 14:14 01社会学の領域 | 個別ページ
ドメスティックな社会学

 一昨日、不揃いだった「講座社会学」(東京大学出版会)が揃った。といっても、11巻の「福祉」が未刊であるが。一日中、これらを眺めていて気づくのは、ドメスティックな社会学だということだ。そもそも英語タイトルはSociology in Japanなのだから、まぎれもなく日本の社会学である。高水準の論考が揃っているので、参考になることは間違いないが、英語圏の社会学テキストや百科事典やハンドブックなどとの重なりがあまりないのが気になる。孤立無援の社会学。それでいいのかという気がしないでもない。応用問題ばかりで基礎とのつながりが見えないのも気になる。
 このように、日本の社会学は明らかに「日本製の社会学」になりつつある。これは「輸入学問からの脱皮」という点でひとまずは喜ぶべきことである。この点については、執筆者もかなり意識しているのではないかと感じた。
 しかし、その一方で懸念もある。それは、社会学とその環境(つまり大学や研究機関)に実証研究への圧力が非常に強くなっていることに起因していると考えられるからだ。つまり、実証的でなければ評価されないという現実がある。実証的研究をしていないと業績として評価されないために、そうでない人はプロになりにくい現状がある。理論研究やエッセイ型の研究は社会学の知識在庫に豊富に含まれているが、それらはあまり評価されない。だから、「講座社会学」のような場所には、一部を除いてもっぱら実証研究に携わる社会学者が書くことになる。
 実証的でないと評価されないとなると、フィールドは日本国内にほぼ限定される。人類学者のように海外にフィールドを持つことが必須要件ではない。せいぜい二カ国比較が限界である。その結果、日本の社会学者が「社会」として対象化できるのは、もっぱら日本に限られてしまう。グローバリゼーションの圧力がこんなに強いのに、ひとり日本社会学は「日本社会の社会学」に閉じこもってしまいがちである。グローバリゼーションを重視する社会学者や研究者は、ながらく社会学が国民国家の枠組から出られなかったと批判しているが、せめて英語圏に視野を広げて学び直す必要があるのではないかと考えている。
 もちろん、すべての章において日本社会学への配慮は必要である。日本の場合はどうなのかを提示してはじめて読者は自分の体験する現実へリンクできるだろうから。これは、本書が想定する中級者においても同様である。
 文化的多様性を考慮すると、伝統社会的ファクターについて説明しなければならない領域社会学の一部は、どうしてもドメスティックになってしまうことが予想されたる。たとえば家族、宗教、村落がそうである。逆に、経済や都市やマス・メディアはグローバルに議論しやすい。領域によって、書き分ける必要がありそうだ。

読書ノート始めます

現在進行中の研究計画で使用する予定の文献レビューを始めます。読書ノートのようなものになる予定です。できることなら週刊誌に連載するように、ひとまとまりの文献について1週間でメモしていきたい。積ん読している文献を読みながら研究計画における役割を確定していく予定です。レーニンの哲学ノー...